愛情と犯罪の線引き
2003年11月28日愛の基準も人さまざまで。
相手を好きになる気持ちが強ければ愛になるけれども、過剰だとストーカー扱いされる。微妙なタイミングをはずすとストーカー扱いされる。全ては個々の基準なんだと思う。愛に飢えていたもの同士ならそれは愛になることも多いが、どちらか一方が満たされている時、飢えているほうは悪者となって去らなければいけない。相手を不愉快に思わせるのが犯罪であれば、どこでその基準を引いたらいいのか。一概に言えるものではない。彼との愛が満ちきっているほど他人から受ける愛は不愉快なものかもしれない。いや人によってはそれが優越感を満たすものになるかもしれない。要するにわからないのだ。実害として中傷ビラを配られたり、傷害、殺人にいたっては、犯罪として厳然と取り締まるべきだが、そこまでいかない微妙な気持ち、不安定な気持ち、純粋な気持ちをひっくるめてストーキングと呼んだのであればドラマティックな愛なんて生まれないのではないのだろうか。要はひとりひとりどこに基準を置いて線引きするか、だけの問題である。絶対値なんてないだろう。
相手を好きになる気持ちが強ければ愛になるけれども、過剰だとストーカー扱いされる。微妙なタイミングをはずすとストーカー扱いされる。全ては個々の基準なんだと思う。愛に飢えていたもの同士ならそれは愛になることも多いが、どちらか一方が満たされている時、飢えているほうは悪者となって去らなければいけない。相手を不愉快に思わせるのが犯罪であれば、どこでその基準を引いたらいいのか。一概に言えるものではない。彼との愛が満ちきっているほど他人から受ける愛は不愉快なものかもしれない。いや人によってはそれが優越感を満たすものになるかもしれない。要するにわからないのだ。実害として中傷ビラを配られたり、傷害、殺人にいたっては、犯罪として厳然と取り締まるべきだが、そこまでいかない微妙な気持ち、不安定な気持ち、純粋な気持ちをひっくるめてストーキングと呼んだのであればドラマティックな愛なんて生まれないのではないのだろうか。要はひとりひとりどこに基準を置いて線引きするか、だけの問題である。絶対値なんてないだろう。
コメント